還暦祝いは観劇でお祝い♪

還暦は何故お祝いするのでしょう?

還暦とは、干支が一巡し、起算点となった年の干支に戻ること。本卦還りともいいます。 数え年に代わって満年齢を用いることが多くなったため、数え年61歳に代わって満60歳を還暦とする考え方が一般的になってきています。 30周年を半還暦・120周年を大還暦といいます。西洋では、ダイヤモンドを60周年の祝いに贈ったり、60周年の象徴とする風習があります。 結婚60周年はダイヤモンド婚式ともいい、殊にヴィクトリア女王の即位60周年は、ダイヤモンド・ジュビリーとして盛大に祝賀されました。

『赤』がテーマの還暦祝い

「還暦には赤いちゃんちゃんこ」という習慣もまだまだ残っていますが、さすがに長寿社会の今となっては、これらに抵抗のある方も。だからといって赤い色にこだわる気持まで忘れる必要はありません。もともと、赤いちゃんちゃんこや頭巾をかぶる習慣には、暦が一巡りして最初に戻る=赤ん坊に戻るという意味合いがありました。同時に赤は、神社の鳥居などを見てもわかるように「魔除けの色」。新しい人生を災いなく過ごし、もっともっと長生きしてほしいという願いが、この赤い色に込められてきました。加えて最近では、赤色は情熱の色、積極性や行動的な心を起させる色という考えもあります。つまり現代社会の今も赤色は、「元気で長寿」の願いを託すことができる色なのです。だから、赤いスカーフや赤いブラウス、シャツ、バッグや小物の赤など、現代に合ったかたちの赤色のプレゼントを選ぶのが最近の傾向です。赤いドレスとミュージカルのプレゼントなら思い出に残る贈り物になること間違い無しですね!

結婚披露宴はミュージカルのように盛大に!

ご両親を素敵なイベントで驚かせましょう♪

人生の一大イベントである結婚披露宴は思い出に残る式を盛大に挙げたいものですよね。その為には入念な準備が必要です。はじめてのことで分からないことばかりの結婚式に備えて、結婚披露宴までの準備の流れや、式次第について簡単にご紹介します。

結婚披露宴の準備は入念に!

【結婚披露宴の会場について】
現代の日本の結婚式は、神前式(神道式)またはキリスト教式で行われることが多く、結婚披露宴はホテルや結婚式場、レストランで行われることが多ため、神社に結婚式場を併設したり、ホテル・結婚式場に神道の祭壇やキリスト教のチャペルを設けて、結婚式と結婚披露宴を1ヶ所で併せて行うことが多いようです。近年はオリジナル性を持たせたパーティースペースやゲストハウスで行われることがあり、挙式の参列者全員を立会人として結婚を誓う人前式で行われることもあります。

【結婚式・結婚披露宴の衣装・服装について】
結婚式の衣装について、神前式の場合、新郎は紋付羽織袴、新婦は白無垢打掛に綿帽子、あるいは色打掛に角隠しであることが多い。キリスト教式の場合、新郎はモーニングコートかタキシード、新婦は純白のウェディングドレスを着ます。また、お色直しとして新郎新婦が中座し、和装から洋装へ、あるいは純白のウェディングドレスから華やかなカクテルドレスへ着替えます。新郎新婦の両親や親族の服装については、男性は紋付羽織袴かモーニングコート、もしくは黒いスーツに白いネクタイを着けることが多く、女性は和服ならば五つ紋の留袖か訪問着、振袖、洋服ならば純白以外の派手にならないドレスを着ることが多いです。

【結婚披露宴の演出】
時代と共に演出のジャンルが広がっていますが、定番はプロフィールビデオや生い立ちや2人の馴れ初めの写真を集めたスライドなど。プロフィールビデオやスライド同様、2人の生い立ち、馴れ初めを記事にしたウェディング新聞なども人気で、芸能人などを結婚披露宴に呼んで余興を行うなどのサービスもあるそうです。演出は盛大に!思い出に残るミュージカルのような結婚披露宴を!

ミュージカルには地ビール?日本酒?

ミュージカルにおすすめのこだわり地ビール

地ビールは、特定地域にて限定量生産する小規模ビール会社による地域ブランドのビールのこと。日本では1994年4月の酒税法改正により、ビールの最低製造数量基準が2000klから60klに緩和されたことを受けて全国各地に地域密着・小規模醸造のビール会社が誕生しました。多くの醸造所が、エール、ダークエール、ピルスナー、ヴァイツェン、ケルシュなど数種類のスタイルのビールを醸造しています。こうした地ビールの醸造所は、全国でなんと200カ所前後もあります。日本では毎年、日本地ビール協会主催でジャパン・ビア・カップが開催されており、一定以上のスキルを持つ審査員によって優秀な地ビールが選ばれています。全国のおすすめのブルワリーをご紹介いたします♪

舞浜地ビール工房ハーヴェスト・ムーン
舞浜地ビール工房ハーヴェスト・ムーンは、千葉県浦安市舞浜にあるイクスピアリの地ビールブルワリーです。ハーヴェスト・ムーンのビールは、イクスピアリ内の地ビールレストランであるロティズ・ハウスで醸造タンク直結のサーバーから注がれるビールが飲めるほか、イクスピアリ内の他店でも飲むことができます。瓶詰めしたものも販売されていて、東京ディズニーリゾート・パートナーホテル併設のコンビニエンスストアでも取り扱っています。

サンクトガーレン
サンクトガーレンの日本での第一号ビールは1995年12月22日に誕生したクリスマス&ハッピーニューイヤービール。シナモンやナグメグが入っている珍しいタイプでした。現在では、レギュラーの4スタイルの他、限定醸造のビールも存在します。バレンタインデーに向けて醸造するインペリアルチョコレートスタウトが特に有名で、販売間もなく売り切れるという人気ぶりです。また、サンクトガーレンは日本各地で開催されるビール関連のイベントに積極的に参加しており、同社が醸造する銘柄のリアルエールの出展なども行っています。サンクトガーレンのビールは、国内外で多数の賞を獲得しているというお墨付きです。

富士桜高原麦酒
富士桜高原麦酒は、山梨県南都留郡富士河口湖町の富士観光開発株式会社が醸造している地ビールです。ドイツのデーメンス醸造専門学校で醸造を学んだ醸造士によって醸造されています。1998年年に醸造開始、翌年の1999年にジャパン・ビア・カップでラオホが初受賞して以来、醸造するビールは、毎年様々なコンテストで受賞しています。

銀河高原ビール
小麦を使用したヴァイツェンを中心に、ドイツ産の原料と天然水を使用したビールを製造販売しています。ドイツ語で小麦を意味する「weizen」(=ヴァイツェン)は、熱殺菌をせずに活きたビール酵母を味わうことができます。「小麦のビール」ビールは、常温保存が可能でまろやかな口当たりとフルーティーな風味が特徴です。

対する日本酒もこだわり満点

日本酒は、白米を蒸して麹(こうじ)と水を加えて発酵・熟成させて作る飲み物の事で、料理の調味料としても用いられます。また酒は百薬の長と言われ、適量飲酒を心がけていれば非常に健康に良いとも言われています。日本全国で様々な種類の酒が製造されており、各地の地酒として特色のある商品が流通しています。日本酒の80パーセントを占める成分はもちろん『水』で、こだわりはその水にもあります。水源はほとんどが伏流水や地下水などの井戸水です。条件が良い所では、これらを水源とする水道水が使われることもありますが、醸造所によって専用の水源を確保することが多いです。都市部の醸造所などでは、水質の悪化のために遠隔地から水を輸送したり、良質な水源を求めて移転することもあります。酒造りに使われる水は、仕込み水はもちろんのこと、瓶やバケツを洗う水まで酒造用水なのです。 また、蔵元によっては仕込み水そのものを商品として販売しており、その水が好評をもって消費者に受け入れられています。もちろん作り方にもこだわりが。日本酒の醸造方法とその管理方法は、世界でも類を見ないほど複雑にして、精巧です。この技術を継承してきたのが杜氏です。 現在では、酒造りを行う技術者を酒造技能者と呼んでおり、酒蔵の長を杜氏、その他の技術者を蔵人と総称して区別 しています。資格としては、酒造技能検定で一級技能士を持つ人が杜氏となっていることが多く、酒造りの責任の他、蔵人を総括し、蔵内酒造現場の管理をも行っています。杜氏とは、すべての酒造技術面 のエキスパートであるばかりでなく、統率力、判断力、管理能力にひいでた人格者であることが要求されるため、蔵人になれば、誰もが杜氏にまでなれるとは限りません。そんな日本酒のオススメ銘柄をご紹介します♪

男山
男山(おとこやま)は北海道旭川市の酒造メーカー。北の灘として知られる旭川を代表する酒造メーカーで、知名度は群を抜いて高いメーカーです。敷地内には、旭川の観光名所の一つである「男山酒造り資料館」が併設されていて、試飲もできて見学無料でとなっています。外には酒造に使われる大雪山の伏流水も湧き出ていて、見学客も自由に飲むことが出来ます。

南部美人
南部美人(なんぶびじん)は、岩手県二戸市にて清酒製造業を行う酒蔵です。日本航空国際線ファーストクラスで提供される日本酒に選ばれています。代表銘柄は『特別純米酒』『特別純米酒 夏のにごり酒』『本醸造』『吟醸酒 吟醸しぼりたて生原酒』『純米吟醸 ひやおろし生詰原酒―無濾過』など。

新政酒造
新政酒造株式会社(あらまさしゅぞう)は、秋田県の清酒製造業を行う酒蔵です。創業は嘉永5年(1852年)で、協会六号酵母の発祥蔵としても有名です。代表銘柄は『純米大吟醸 佐藤卯兵衛【純米大吟醸酒】』『純米吟醸 グリーンラベル【純米吟醸酒】』『特別純米 六號【特別純米酒】』『秋田流純米【純米酒】』『特選純米【純米酒】』

劇場で生の迫力を!

劇場は、小規模な劇場も大きな劇場も「芝居小屋(しばいごや)」「小屋(こや)」と呼ばれたりしています。演劇は古くから庶民の娯楽であった為、各地に数多くの小規模な劇場が建設されてきました。これらの劇場は各地域の芸能ばかりではなく、「どさ回り」と呼ばれる地方を巡回して劇を行う演芸者の小集団が劇を行う場でもありました。後にこれらの劇場の多くは映画を上映する設備を備えるようになり、地方巡業の演芸者が減少するにつれて映画館へと役割を変えていきました。このため、演劇を行う舞台を備えていた映画館などは「劇場」と名付けられているものが多かったようです。

様々な『劇場の種類』

劇場の様式は、そこで行われる作品と同様に多種多様です。多くの劇場では、演技空間である舞台と、観客席、舞台装置などを納める舞台裏と、俳優らの控え室である楽屋が備わっています。オペラを上演するための専用の劇場では、これらの他にオーケストラ・ピットなども用意されています。完全に平らな空間のみの劇場もあり、そのような空間では上演内容に合わせて舞台や客席の配置を調節できるようになっています。劇場は、舞台と客席の位置関係によって・・・

  • 舞台と客席の位置関係が固定されているもの
  • 演目・演出により、舞台と客席の位置を自由に配置できるもの。
  • 舞台が客席に突き出し、複数の方向から客席が囲んでいるもの。
  • 空間の片側が舞台で、片側が客席になっているもの。
  • 舞台が空間の中央にあり、円形に客席が取り囲んでいるもの。

上記のように分類することができます。

野外劇場の『古代ギリシア演劇』

古代ギリシアでは、劇場は丘などの斜面を削って建造されていました。野外劇場ですが、演者や合唱隊の声がよく届くよう音響効果の優れた構造が取られています。劇場全体はすり鉢状になっていて、底の部分に俳優が演じる舞台(プロスケニオン)と、合唱隊用の平土間(オルケストラ)がありました。客席は、すり鉢の斜面部分に、舞台を半円形に囲うように作られた。収容人数は最大規模のもので2万人程度と言われています。日本の劇場でも、古代ギリシアの劇場の様式を模したり、なんらかの形でそのコンセプトを取り入れているところは少なくありません。彩の国さいたま芸術劇場の小ホールや新宿コマ劇場など。

ロンドンのグローブ座『エリザベス朝演劇』

中世のイギリスでは、エリザベス1世の時代に独特の演劇文化が花開きました。建築物部分は三層になっていて、規定の料金を払った観客はここに上がり座って観劇することができたそうです。1階の平土間は立ち見用の観客席となります。舞台は平土間に突き出すような形で設置されており、その上部には柱に支えられた屋根があります。建築物部分とこの舞台上以外に屋根はなく、平土間上部は陽光を取り入れるために吹き抜けとなっています。収容人数は劇場によって異なりますが、シェイクスピアの書き下ろし戯曲が上演されていたロンドンのグローブ座では、2000人を越える観客が観劇できたといいます。日本では、ロンドンにあったグローブ座を模した劇場として1988年に東京グローブ座が完成しました。

日本の伝統『能、狂言』

能や狂言は、能舞台で上演されます。明治以降に成立した能楽堂では、主舞台となるのは柱に囲われた三間四方の板張りの空間。向かってその右側には、地謡座と呼ばれる場所があり、シテの演技に会わせて合唱をする地謡が座ります。主舞台の奥には後座があり、楽器の演奏者である囃子方が位置します。さらにその奥は鏡板と呼ばれる老松の絵が描かれた壁があります。後座の向かって左側には橋掛りと呼ばれる廊下があり、ここで演技が行われることも多くあります。橋掛かりの前には、主舞台に近い順に、一の松、二の松、三の松と呼ばれる松の若木が植えられています。橋掛かりの奥には、揚幕もしくは切幕という幕越しに、鏡の間と呼ばれる部屋があります。

能舞台が定着したのは室町時代末期頃と考えられています。それ以前、即ち現在の能が成立する以前は、神社内の建築物や芝生、屋外に仮設置された舞台などで演じられていました。舞台が屋内に入ったのは明治時代からで、この屋内型の能舞台にも屋根があるのは、能が屋外で演じられていた頃の名残です。現在各地で薪能が盛んになり、屋外での公演がなされているので、以前の能の雰囲気も知られます。能舞台は細かく様式化されていて、柱一本一本や地謡座・後座内の位置などに全て名称が付けられています。舞台の下の地面には数個の甕を埋めて、音響効果の工夫がしてあります。古い神社などに残るものや、新設された屋外型の能舞台も、主舞台があり橋掛りがある空間の基本構造はほぼ上述の能舞台と同様です。

躍動的で三次元的『歌舞伎』

初期の歌舞伎は能舞台の様式を模していましが、次第に橋掛かり部分が拡大し、舞台空間が拡がっていきました。初期には屋外に舞台が仮設され、観客は芝居で観劇していました。やがて市中に芝居小屋が建てられるようになりますが、屋根は舞台の上のみで、観客は土間に座って観劇したため、雨天の上演はできなかったそうです。瓦葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは1724年のこと。歌舞伎の劇場はその複雑な機構に大きな特徴がある。これには静寂で二次元的な洗練を極めた能の反動として、歌舞伎がより躍動的で三次元的な見世物として発達していったこと、そして人形を使うことで幻想的表現が可能な人形浄瑠璃から強い影響を受けたことなどが理由としてあげられます。

寛保年間に出た『芝居浮繪』には当時の葺屋町市村座の様子が描かれていますが、間口の狭い桧舞台にはまだ能の名残りの飾り屋根が架けられていたこと、すでに桟敷は土間から板張りになってその上は屋根で被われていたこと、二階には座敷席がありその上には明かり取りの天窓があったことなどがそこには見て取ることができます。ガス灯を劇場内に設置して夜間の上演を行うようになったのは1878年に開場した新富座が最初で、それ以前の上演はすべて朝方から日没までだったそう。観客席を舞台の延長として貫く「花道」は、歌舞伎で独特の発達をとげます。俳優主義の演劇でありサービス精神旺盛な歌舞伎にとって重要な機構である。花道は舞台の下手よりに設けられます。演目によって上手にもさらに仮の花道が追加されることがあります。舞台には「セリ(迫り)」と呼ばれる昇降装置が何カ所かに設けられている。花道上にあるセリは「すっぽん」と呼ばれている。セリは位置によって「前ゼリ」、「中ゼリ」などと呼ばれている。特に大きなセリは「大ゼリ」と呼ばれ、分割して昇降させることも可能になっています。大ゼリは、舞台美術の昇降にも使用されています。舞台中央には、舞台を回転させ場面転換を容易かつ見せ場にすることが可能な廻り舞台が設けられています。廻り舞台はその形状から盆とも呼ばれます。廻り舞台は、歌舞伎を発祥とする日本独特の機構です。

この他に「鳴り物」と呼ばれる音曲や効果音の演奏者たちが位置する「黒御簾」、あるいは「下座」という小部屋や、俳優の出入り口として使われる「揚幕」という幕を垂らした場所などがあります。下座の二階も小部屋になっていて、義太夫節が演奏される場所になっています。舞台の最前面には「定式幕」と呼ばれる引き幕があり、定式幕は黒、萌葱色、柿色の三色の縦縞になっていて、国立劇場と歌舞伎座で色の順番が異なっています。

魅惑の宝塚歌劇団☆

宝塚歌劇団は、兵庫県宝塚市を本拠地に、未婚の女性だけで構成されている日本の歌劇団です。1914年に初の公演を行って以来、今日も人気を集める女性歌劇の劇団で、現在は花・月・雪・星・宙の5組と、いずれの組にも所属しない専科に分かれています。宝塚大劇場と、東京宝塚劇場を中心に公演を行っています。創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になりました。現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、ミュージカルやレヴューを上演し続けています。ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、SFまで多岐にわたります。

舞台に出演するのは宝塚音楽学校の卒業生で、全員が未婚女性です。団員たちは「タカラジェンヌ」の愛称で親しまれています。収容数2000人以上という大規模劇場で常時公演し、舞台上には照明が当てられていることから、遠目からでも演者の表情が分かるように、大き目の付けまつげ、厚めのドーラン、強いアイライン等殆どの演者が華やかなメイクを施しています。女性だけの劇団であるため、男性役も女性が演じます。男性の役を「男役」・女性の役を「娘役」と言う。身長を目安に、劇団併設の宝塚音楽学校にどちらかを優先的に希望することになっていますが、公式に定められてはいません。また、入団後、男役から娘役への転向は多数の例がありますが、娘役から男役への転向例は極めてまれです。創設初期の頃は娘役に人気が集まりましたが、現在は男役の方がファンの人気が圧倒的に高いようです。

劇団のシンボルソングのようになっている「すみれの花咲く頃」は戦前のドイツ映画主題歌「リラの花咲く頃」をフランスでシャンソン化して歌われているのを聴いた白井鐵造が持ち帰って詞をつけたもので、歌劇団のみならず阪急百貨店の開店時にも演奏されるなど阪急阪神東宝グループの象徴的なテーマ曲となっています。

夢の学校『宝塚音楽学校』

団員は、劇団付属の「宝塚音楽学校」で予科1年・本科1年のあわせて2年間の教育を受けることになっています。また、宝塚歌劇団入団の条件も、音楽学校の卒業生に限られています。宝塚音楽学校とはいったいどのような学校なのでしょう。

宝塚音楽学校(たからづかおんがくがっこう)は、予科・本科合わせて2年制の、宝塚歌劇団団員養成所です。学校教育法上は兵庫県認可の各種学校となっています。劇団員の正装は、黒の紋付にオリーブ色の袴で、各種式典・退団時に着用します。理事長は角和夫(阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄社長)、校長は岩崎文夫(能勢電鉄取締役)。名誉校長は小林公平(阪急電鉄元会長、創立者小林一三の三男・米三の婿養子。)。副校長は2010年4月、宝塚OGで元歌劇団理事である今西正子。モットーは「清く 正しく 美しく」。宝塚音楽学校の生徒は、毎日、声楽・バレエ・日舞など、劇団で必要な事柄について、みっちりレッスンが組まれています。その他の授業には、モダンダンス・タップダンス・演劇、ピアノなどがあります。隊列行進の仕方は、実際に自衛隊から講師を招聘して、指導を受けているそうです。授業の後もすみれ寮でのレッスンがあり、忙しい毎日を送っています。「朗らかに、清く、正しく、美しく」の教えに基づき、礼儀作法やマナーも厳しく、早朝から予科生が稽古場を丁寧に掃除している事は有名。かつては「女士官学校」と呼ばれるほどに厳しさは有名でした。昭和中期には現在に比べると大量の生徒を入学させていましたが、同時に多数の落第者を出していました。当時は、夏長期休暇の際にはすべての生徒が家に帰宅させられ、後日通知のあった生徒のみ後期に進めるという厳しいものだったそうです。現在は1学年につき1~3人程度の中退者が出ているようです。就業年間は2年となっていますが、卒業水準に満たなければ留年もあり通常の高等学校と同じような制度になっています。

組構成『花組』

花組(はなぐみ)は宝塚歌劇団第1番目の組。イメージカラーは赤~ピンク。1921年に公演数と生徒の増加によって月組と2つに分かれて誕生しました。組名称は『雪月花』にちなんで名づけられたそうです。その際、一班を『花組』、二班を『月組』としたため、花組が「宝塚で最も歴史の古い組」とされています。長年、「ダンスの花組」と呼ばれ、ダンスを得意とするスターが多く在籍していました。また、「男役の宝庫」とも呼ばれ、数多くのスターを輩出しています。トップ男役・娘役に組生え抜きのスターが就任する例が多い一方、他組の歴代トップ男役・娘役にも花組在籍歴がある者が多いそうです。

組構成『月組』

月組(つきぐみ)は、宝塚歌劇団2番目の組。イメージカラーは黄色。1921年に公演数と生徒の増加によって花組と2つに分かれて誕生しました。組名称は『雪月花』にちなんで名づけられたそうです。その際、第一部を『花組』、第二部を『月組』としたことから、2番目の組とされています。ナチュラル志向の芸を持ち味に、特に芝居に強いトップスターや助演者を多く輩出しています。専科で活動中の月組出身者や、退団後女優として活動する者も多くいらっしゃるそうです。また、日本初のレビュー『モン・パリ』をはじめ、『ベルサイユのばら』『風と共に去りぬ』など、今日の宝塚歌劇を代表する作品が初演された組でもあります。

組構成『雪組』

雪組(ゆきぐみ)は、宝塚歌劇団第3番目の組。イメージカラーは緑。1924年に宝塚大劇場の開場に合わせて新設されました。組名称は『雪月花』にちなんでいるそうです。戦後、春日野八千代を中心に、特に日本舞踊や所作の美しさを評価されていたスターを多く輩出しています。端正な芸を持ち味に、日本物の芝居を得意としてきたため、「日本物の雪組」と呼ばれ、日本物の芝居の上演が多い傾向がありました。また、今日の宝塚において人気の演目のひとつである『エリザベート』の初演が上演された組でもあります。現在はダンスを得意とするスターが多く在籍しています。

組構成『星組』

星組(ほしぐみ)は、宝塚歌劇団第4番目の組。イメージカラーは青。1933年に創設されました。1939年に、時局悪化のためにいったん廃止されましたが、花・月・雪の3組体制を経て、終戦後の1948年に労働基準法に対応するため復活し、現在に至ります。長身の男役が多く、特にコスチューム・プレイで真価を発揮しています。また、宝塚歌劇団初の一本立て作品『虞美人』の初演をはじめ、本公演での一本立て作品が多く上演されてきました。

組構成『宙組』

宙組(そらぐみ)は、宝塚歌劇団第5番目の組。イメージカラーは紫。1998年1月1日に創設されました。組名称は公募により決定。老朽化による東京宝塚劇場の建て替えを機に、新劇場では宝塚歌劇の専用劇場として通年公演を実施することになったため、これに対応するための組の増設が必要になり、既存4組からメンバーを選抜し、同時に団員の大規模な組替えを行って設立されたそうです。星組と並んで長身の男役が多く、劇団随一の平均身長を誇っています。

組構成『専科』

宝塚歌劇団における専科は、特定の組に所属しない団員の集まりです。イメージカラーは、いぶし銀の輝きや渋さを表す黒~グレー。組と並んで表記されることが多いですが、組ではなく特定の組に所属しない一芸に秀でた生徒の集団です。英称は“SUPERIOR members”。元々は「舞踊専科」「演劇専科」「声楽専科」「ダンス専科」「映画専科」などに分かれていましたが、近年はそのような振り分けはされていません。専科生は各組の公演には“特別出演”として出演します。春日野八千代、轟悠は主演男役として特別出演します。他の生徒は、主に老け役をこなし、脇でしっかり芝居を固めるなど、渋いながらも宝塚の公演にはなくてはならない存在。また、1984年専科バウホール公演『花供養』などのように、専科生だけの公演もあるようです。

迫力!の劇団四季

劇団四季(げきだんしき)とは、年間3,000ステージ超、俳優・スタッフ700名以上を有する日本最大規模の劇団です。劇団創立は1953年7月14日。海外ミュージカル作品の上演だけでなく、オリジナルミュージカルも人気があります。 日本にミュージカルを定着させるのに大きな役割を果たしており、現在、東京・横浜・名古屋・大阪・北海道に専用劇場を所有し、公演を行なっています。

当初は、東京大学と慶應義塾大学の仏文科の学生を中心として結成された学生演劇集団でした。最初からミュージカル劇団だったわけではなく、設立からかなり長い期間がストレートプレイ専門の劇団だったそうです。当時新劇界を席巻していたイデオロギー優先で演劇的な面白さを欠いた潮流に懸念を抱いた創立者たちが、演劇そのものの面白さを追求する劇団として創設したこととも関連しています。主にジャン・ジロドゥやジャン・アヌイらフランス文学作家の書いた戯曲を演じていました。

最初は学生による同人的な劇団でしたが、次第に職業劇団へと変化し、1967年に株式会社になり四季株式会社となりました。「四季」と名付けたのは、俳優・演出家の芥川比呂志氏。芸術性を優先して日本人による創作劇を連続上演して経営危機に陥ったり、生活を支えるためにアルバイトを優先する劇団員とそれを批判した劇団幹部の対立によって内部分裂の危機に見舞われたりしましたが、安定した集客力をもつ高水準の芝居を上演することで、芝居だけで劇団員が生活できる経営を目指すようになっていきます。

1971年に越路吹雪主演のミュージカル『アプローズ』をヒットさせてから、様々なミュージカルを上演しながら技術を蓄積、1979年に『コーラスライン』を上演したことが転機になります。日本の劇場は月単位契約のため、大ヒットを重ねても結局収益が限られる傾向があり、劇団四季は専用劇場の獲得を模索しはじめます。1983年、西新宿の都有地空地を借りテント張りの仮設劇場を設置、『CATS』のロングラン公演に踏み切ります。1984年11月10日までの公演となりました。1985年、大阪市西梅田の旧国鉄コンテナヤードに設置した仮設テント劇場で『CATS』を再演し、13か月のロングラン公演を達成しました。『コーラスライン』を上演するまで劇団四季の上演回数は多くても年19回で、年平均10回程度だったそうです。『コーラスライン』を上演した1979年は前年の50倍の581回となり、『CATS』を初演した1983年は707回。以後一貫して上演回数が増え続け、2002年には2530回上演しています。

演目/ミュージカル【オペラ座の怪人】

オペラ座の怪人は、フランスの作家ガストン・ルルーの原作小説「オペラ座の怪人」を基にしたミュージカル。1988年の4月に劇団四季が上演を開始しました。19世紀末のパリ、オペラ座(オペラ・ガルニエ)が舞台。パリのオペラ座の地下に住み、劇場関係者から恐れられている怪人と、怪人に歌手としての素質を見いだされレッスンを受けるコーラスガールのクリスティン・ダーエと、その幼なじみで新たにオペラ座の後援者となったラウル子爵の3人を巡る三角関係のストーリーが描かれています。ルルーの原作の雑多なストーリーを刈り込み、登場人物を絞り込んで、怪奇ものでありながら怪人を中心としたラブ・ロマンスに焦点を当てています。ロイド=ウェバーによる流麗な音楽、豪華な舞台衣装や美術、鮮やかな舞台転換などが多くのファンを引きつけています。ロイド=ウェバーが、当時ミュージカル俳優としては無名だった妻サラ・ブライトマンを、ニューヨークブロードウェイの俳優協会の反発を押し切って主役に抜擢。彼女を世界のトップスターに押し上げた作品でもあります。

演目/ミュージカル【キャッツ】

『キャッツ』は、世界で興行的に最も成功したミュージカルのひとつ。マンカストラップ、ラム・タム・タガーといった個性的な猫たちが都会のごみ捨て場を舞台に、踊りと歌を繰り広げます。人間が一切出てこない型破りの演出と振付に、観客も最初は戸惑っていたがやがて大ヒットとなりました。イギリスの文学者T・S・エリオットの詩集「キャッツ – ポッサムおじさんの猫とつき合う法」に対しアンドリュー・ロイド=ウェバーが曲をつけました。一部の曲は演出家トレヴァー・ナンらによって作詞されています。代表曲「メモリー」はT・S・エリオットの未完の草稿を基に、トレヴァー・ナンが新しく書き下ろした歌詞です。トレヴァー・ナンによる演出で、1981年5月11日にロンドンウエストエンドのニューロンドン劇場で初演されました。ロンドンでの公演や日本の仮設劇場公演では、舞台全体が回転する回り舞台を使用し、開演にあたって裏返しになった舞台を180度回転します。日本では劇団四季によって1983年に東京都新宿の仮設劇場であるキャッツ・シアターで初演されました。このキャッツ・シアターは日本初のミュージカル公演用の仮設劇場でした。続いて、順に大阪、東京、名古屋、福岡、札幌、大阪、東京、札幌、福岡、名古屋、大阪、静岡、広島、仙台、東京と全国で上演され続け、25年間で上演回数は7000回を超え、観客動員数は750万人以上に達しています。国内のミュージカル上演回数として最多記録を更新中です。また、2007年9月8日に同一公演地での公演回数1000回を突破し、2009年11月からは横浜・みなとみらいで公演されることが発表されました。2010年4月25日夜公演をもって、ブロードウェイ記録である7485回を抜き、7486回の公演を達成しました。

演目/ストレートプレイ【ハムレット】

ハムレットは、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年のころ書かれたと推定されています。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」。あらすじ・・・デンマーク王が急死し、王の弟クローディアスは王妃と結婚。跡を継いでデンマーク王の座に就きます。父王の死と母の早い再婚とで憂いに沈む王子ハムレットは、従臣から父の亡霊が夜な夜な城壁に現れることを知ります。亡霊に会ったハムレットは、実は父の死はクローディアスによる毒殺だったと告げられます。復讐を誓ったハムレットは狂気を装い、王と王妃はその変貌ぶりに憂慮しますが、宰相ポローニアスは、その原因を娘オフィーリアへの実らぬ恋ゆえだと察します。父の命令で探りを入れるオフィーリアをハムレットは無下に扱いmやがて王が父を暗殺したという確かな証拠を掴んだハムレットですが、母である王妃と会話しているところを隠れて盗み聞きしていたポローニアスをねずみと誤って刺殺してしまいます。オフィーリアは度重なる悲しみのあまり狂い、やがて溺死してしまいます。ポローニアスの息子レアティーズは父と妹の仇をとろうと怒りを燃やしますが・・・。。シェイクスピアの四大悲劇の一つです。

演目/ファミリーミュージカル【オズの魔法使い】

オズの魔法使いはライマン・フランク・ボームが著した児童文学作品。「マザー・グースの物語」のヒットで童話作家として成功していたライマン・フランク・ボームが、自らが子どもたちに語ってきかせた物語を元に書き、1900年5月に出版した。W・W・デンスローが挿絵を担当しました。凝った構成によるカラー図版の児童書は当時としては革新的であり、本はたちまち子どもたちの心をとらえ、増刷の追いつかない空前の人気作品となったそうです。初版の1万部は数週間で売り切り、翌年1月までにほぼ10万部が売れました。アメリカ・カンザス州に暮らす少女ドロシーは竜巻に家ごと巻き込まれて、飼い犬のトトと共に不思議な「オズの国」へと飛ばされてしまいます。途中で脳の無いカカシ・心の無いブリキの木こり・臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えてもらうため「エメラルドの都」にいるという大魔法使いの「オズ」に会いに行きます。「オズ」の名の由来は、原作者ボームが近くのファイリング・キャビネットにO-Zと記されているのを見て名づけたなど、色々な説があるそうです。